昭和50年05月24日 朝の御理解
御理解 第4節
「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折りには、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神助けて呉れと言えばおかげは授けてやる。」
教祖様の御信心に現れなさった神様と言って良いでしょう。だから金光様、所謂教祖様おありになって天地金乃神様のおかげを、おかげを頂く事が出来る様になった。是はそのー教祖様がおられなくっても、矢張り天地金の神様のおかげを、お互い生きとして生きるもの、その御恩恵に浴しておるので御座いますけれども、それを解らせて下さったのが、教祖様だとこう思います。
天地の親神様の御恩恵に浴して行かなければ、私共それは人間だけではない生きとして生けるもの、その全てが御恩恵なくば生きる事も幸せに暮らす事も出来ない、と言う事実をはっきりと、私共に取り次ぎ教えて下さったのが、教祖様。故に、神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神であるとまで言われる訳であります。だから両方からの恩人は此の方金光大神である。
金光大神の言うう事に背かぬ様、良く守って信心せよ、まさかの折りには天地金乃神と言うに及ばぬ、金光大神助けて呉れと言えばおかげを授けてやると仰る。それで金光大神の言う事に背かぬ様に良く守ってと。だからおかげを頂いて行く、徳を受けて行くと言うのは、此処からなされなければならん。唯天地金乃神のおかげを受けられる様になったと言う所までは。例えば金光大神の言う事を、聞かなくってもおかげは受けられる。けれども金光大神の言う事に背かぬ様に良く守って信心せよ、と言う所がです。
私けしはこのみ教えの大事な所と思うです。まあ言うならば、金光教の知識とでも申しましょうか、金光様とはどう言う神様か、また金光様の信心の拝む目当と言うのはどこなのか。金光教はどうして出来たのか、と言った様な説明がしてある訳です。だけではなくてその金光大神が天地金乃神様からお受けになる御教えと言うものを、言うなら金光大神の言われる事を良く守らせて頂く所から、所謂本当のおかげが受けられる。金光大神の言う事を良く守れよ、と言う事になって来るのです。
昨夜お月次祭を終わらして頂きまして、寝んでおりましたら、訪ねて来た方がありました。また起きて茶の間で聞かしてもらい、またお話をさせて頂きました事ですけれども、今朝方からえらいその不思議な、しかも念の入ったお夢を頂いたと思うです。まあ長々としたお夢でしたが、それを聞かして頂いて、まあ言うならば今晩のお月次祭の教話で申しました様な内容だと。
だから今日のお話をよく、まあ聞いて頂けば解るんだけれども、それをあなた風に頂くと云う事になると、どう言う風になるのだろうかと言うて、その事の説明をさして頂いたんですけれども。もう非常に何と申しますか、心の美しい方です。非常にそして信心に迫力も持って居られます。所がその金光大神の今日の御理解です、言う事に背かぬ様にと言う事になると自分の考えが本当だ、自分の考えは間違って居ないんだと言った様な、言うならば思い上がり的な所がある方なんです。ね。
心が綺麗で美しいそれで清廉な迫力もある。だらおかげは受けておられる。おかげは受けておられる。そりゃ皆んなが羨ましい位に、おかげは受けて居る、けれどもその欠点と言うのはね、此処では身の廻りと言うかね、廻りの事を蛇のおしらせなんかを頂くと、この廻りと言う事を申しますが、その方が頂いとるのは、辰とも知れない龍とも知れないと言った様なお夢なんです。
辰と言うのが居りましょう、龍、まあ矢張り蛇の一種です。所が一寸蛇より高尚なんです。だから自分の廻りその物をです買い被っておると言うか、そのう廻りその物がです、自分の特徴の様に思い込んでおられる様な向きがあるんです。そして熱心ではありますけども、何とはなしに仏教的な所があるんです。若い時にはそのお不動様なんか拝んで居った関係も、やっぱりあるでしょう。信心の奥雅に進んで行けれる様な内容を持ちながら、所謂金光教的でない所がある。
言うならば、金光大神の教えて下さる事に背かぬ様にと言う、そこの所が出来なさらん。私はその事を本人に申しましたのですけどね。例えて言うならば、女の方がこの髪を綺麗に結い上げます。まあ特にまぁ今日は皆さん洋髪ばかりですけど、日本髪が適切ですから、日本髪を結うと致します。それに櫛とか簪(かんざし)所謂、笄(こうがい)の類を、言わば飾り付けます。飾りです。
それで日本髪が生きて来る様にです、ほらもう頭をこう雀の巣のごと乱れておると致しましょうか、もう言うなら結う髪が崩れてこうなっとると致しましょうか。それにどんなに見事なです、例えばヒスイの簪を、又は例えば珊瑚の簪を、所謂櫛笄の類を飾り付けたらどう言う事になるでしょうか。可笑しなもんですよね。綺麗にこうそれこそ結い上げといて、そして簪が差され笄が差されてこそ始めて、ああ良いなあとこう思うのです。髪と言う事は、私は信心神様の神と言うに、信心を結い上げる。
そしてその結い上げたその髪形も良いが、それに尚又アクセサリーである所の櫛、簪が用いられて始めていいなと言う髪になるのです。信心も矢張り同じ事です。どんなに良い物を持っておる、言うならヒスイの簪を持っておる、ベッコウの櫛を持っておると、例えば言うてもです、髪そのものが乱れておったんでは値打ちがありません。かえって可笑しい位です。私はあのうそれを思うんですけどもね。
惟はもう私くし自身の信心の、まあ初めての頃を思うて見ますのに、自分から求めて着物を作ろうとも、自分から求めて美味しいものを頂こうとも、自分から求めて良いお家に住まおうとも、もう更々私は思はなかったです。私はあの信心させて頂く者の大事な所は、この辺の所が大事ですね。甲の人が良い家に住んどりゃ、乙の人もそれだけの力がなかったちゃ、その立派な家に住んで見たいと思ったり、あヽあちらは贅沢しよんなさる、それはお金が充分あるから贅沢もしよんなさろうけれども。
それとお金もないのにその贅沢をして見たり、美味しいものを食べて見ろうと思ったり、人が立派な道具を揃え御座るから家も揃えにゃと言うて、力もないのに揃え様と致しましたり。惟ではね本当のスッキリした本当のおかげが何時まで経っても頂けませんです。言うならば楽はしませんぞと言う様な気持ちにならにゃいけません、信心させて頂く者は楽はせんぞと、そして楽はさせて頂く物だと言う事を知るらにゃいけません。
神様がさせずにはおかんと言うのです。私しがね惟は私くしと家内ともう二十何年か前、外地から引き上げて参りまして此方と言うものは、布一っ寸買わないと言うのが、私の流儀でした。ですからもう人がどんなに好い着物を着られても、どんな素晴らしい風をなさっても、それが欲しいとも買おうともさらさら思はなかった。所が段々おかげを頂いて参りましたら、着せねばおかん、食べさせなければおかん。
言うならば人が羨む様な立派なお家にも住まわせにゃおかんと、言う働きが言うなら、楽はせんと決めておったら、楽はさせにゃおかんと言う働きが、それが本当の楽である。本当の極楽である。それなりの事ならまだ良いけれども、自分達にとっては分不相応なです、言うならば生活を求めると致しましょうか、言うならば未だ借金は一杯もっとる、さー手形、手形には慌てんならんと言った様な事でです、それで立派な家に住むとか、立派な着物を着るとか、と言う様な事はです。
私は言うならば神様の気感に適はない事だと思います。金光大神の言う事に背かぬ様にと言う信心をさせて頂いとったらです、愈々私しは何と申しますか、そう言う楽はせんぞと言う様な、心が自と具わって来なければいけない。してはならんのではない、させねばおかんと言う働きが、あってこそ、初めてそれを頂き止めて行こうと言う、おかげを頂かなければならない。
夕べ私くしが、お取り次ぎさせて頂いた方は、非常によかもん好きなんです。良い物好きなんです。宝石なんか沢山持って居られます。着物なんか取り替え引替え沢山持って居られます。して弥か上買い好きですから、もう道具でも何でもそれは見事な道具を集めて、それこそ家が狭くなる様に沢山、家財道具なんかでも揃えて居られます。惟はかえって邪魔になりよりゃせんじゃろうかと言うごとあるです。
けれども自分はそういう例えば良い物好きであり、良い物そう言う事が人の出来ん様な事が、ストスト例えばそう言う物を買おうと思うたら買えれる。お商売しとられますから、人の金ではあるけれど沢山金はある。ですから買おうと思えば買えれるから、買いもしなさる訳ですけれども、それは一つのその方の廻りなんです。もう人の良いものが欲しゅうて堪えん。良い物を身に着けようごとして堪えん。
金なかっても借金してからでも買いたい。惟はやっぱりその人の廻りですけれども、本人はそれを自分の特徴の様に思い、間違うておられる。お夢の中にその方が頂いておられるように、その竜か辰かと言うのですから、人の蛇なんかの廻りと、自分のとは良かと云う風に思うてある。けれどもそこん所が本気で改まれないかぎりです、言うならば余裕のある、本当に言うならば手形、手形で追われる様な事がなくてですね。
銀行にゆとりの預金が出来て、そして本当のいうならそういうおかげを頂いて、良い着物であり素晴らしい宝石であり、素晴らしい丁度品であると云う事にならなければいけない。丁度それは乱れた髪に櫛、簪、笄を差しておる様な物であると言うお知らせを、私くしがそれは前に頂いとりましたから、その事を伝えさせて頂いて。私しは昨日、お月次祭のお説教をさせて貰うのに、今日はどう言うお話をさせて貰おうかと思うて、乱れた髪にです立派な櫛、簪を差して居る所を頂いたから。
昨日はその事を話そうと思ったんです。所が内容はやっぱしその事を申しましたですね。昨日のお説教にその事を私はコロッと忘れとった。そしたらお月次祭が終わってその方が見えて、こう言うお夢を頂いたと言うから、あら私はこう言うお知らせを頂いとったが、言うならば今日の教話の仲から頂けば良いけれども、あなた流にあなた風に頂くならば、そう言うな事になるのじゃないだろうか。
それこそ粟島さんじゃなかばってん、もう何かこう房のごたる物を下げとるようなもの。ですから私共は先ずはです、昨日も申します様に先ずは自分を知る事、そして自分を知らせて頂いてです、お金がないのに着物が欲しい、言わば人が指輪はめて御座れば自分もはめ御座る、と言った様なですね、惟は男女に限らずです。そして自分の力以上の、人並みの事をしょったんでは、やっぱりおかげも人並みです。
昨日も申しました様に人がイ扁(にんべん)なら私しは、扁(ぎょうにんべん)と言う生き方。とても私共夫婦は、とても自分で求めて布一寸買う事は致しませんと、二十何年間今日まで続けて来とりましたが、成る程一時はねそれこそ夏も冬もない、それこそ夏服一着で過ごさして頂きましたが、あれを食べたい、惟を食べたいじゃなく、もうギリギリ食べる資格のない自分を発見した時です。
とても人並みに固い御飯どん食べとったんじゃいけんと言うので、三年間余りを、言うならお粥食を一椀ぎりの一食修行を、一食修行と言うか食べる資格はないと言う目的に立った時に、そうしなければおられなかった。それが今ではもう本当に、私しは勿体ない程しのです。それこそ着物でも何十万もする様なお供えの着物を着せて頂いて、家内なんかもう最近、もう様々な宝石の、言うならば装飾の品までお供えを頂いて、言うならお食事でも、惟が山海の珍味であろうかと言う様なお供えを。
本当に日々頂かせて頂いて勿体ない。四、五日前わざわざ伊万里から、あのう竹内先生の所の運転手さんが、わざわざ、この位ばかりの小さな松茸を一本持って来て下さった。佐賀からですよ。それは大変な事ですけれども、しかし一本のこの松茸をです、ただ親先生に上って頂きたいと言う訳でしょう。時ならぬ今頃ね言うならば松茸の、焼き松茸の頂けれると言う事は、本当に山海の珍味です。
昨日私は丁度その方にお会いする時に、もう寝衣に着替えてましたから、一寸浴衣で昨日頂いとったのを、上野先生が仕上げて部屋に持って来て呉れとりましたから、その着物を着せて頂いて、その方と面接させて頂いたんです。その方は良かもん好きですから、その方はすぐ眼に付く解るんです。その着物は良いですね、と。例えばすぐ眼に付く様な着物がです、もうそれこそ誰が漏って来るともなしに、誰が集めるともなしに、もう様ぁざま集まって来る様な中におかげを頂くのは。
私くしはもう楽はせんぞと決めてからです。だから神様は、楽はさせにゃおかん、あの人があげんと着ちゃるけん自分も着たい。あそこにはあげな道具買うちゃるけん、こげな道具いちょ位おかにゃ、そう言う様な考え方では、何時までたってもおかげは頂いても、お徳にはなりません。金光大神の言う事に背かぬ様にと言われるのに金光大神の言う事に、背いたなりにおかげを頂いておるからです。惟は一言、二言ではありません。金光大神の言われる事は決して難しい事は言っちゃなか。
させて頂こうと思えばさせて頂けたい、頂ける信心修行ばっかりなのです。その方には私くしがちょいちょい申します。言うならば、言うなら物を言うなら買い好き、もう良かもんが見たら買おうごとして堪えん。然もならそれが本当の自分の金かと言うとそうでは無い。商売しとるから只こう、お金が回っとるけれども。さあ手形と言うときにゃもうそれこそ、もう本当にどう言う纏った手形の時でも、その代わり一生懸命日頃の信心が出来てますから、お願いに見えれば。
それこそギリギリではあるけれども、この前だんもう倒産したっちゃ仕様のなかと言う位のギリギリの纏った手形を持っとられましたが、やっぱりギリギリ、キチッとおかげだけは受けてあります。だからそう言うおかげだけ頂いとるだけじゃいかんでしょうが。何時も神様に御無理を言うとかんならんと言う感じですよ。それを私し言うならば、その買い物好きである所の、好かもん好きである所の廻りをです。
自覚して本当に求めて買う様な事だんせん。言うなら例え買うにしても、分相応な物しか身には付けん、買いはせんと言う様な生き方をもし身に付けて行きなさるならば、です。そして何と申しましょうかね、私くしは昨日家内と話ました事ですけれども、宅祭りと言うと必ず家内と二人で参ります。ですから家内はま何処行く時でも、まあ自分の頂いとる最高の着物を着せて頂いたり。言うならば宝石を身に付けたりして参りますけれども、お前はこの頃それが似合わんごとなったね。
だから俺が黒衣を作ってやるから、惟からはいっちょ紋付き袴で俺と同じ恰好で行ったらどうか、もう黒衣がよかばい、黒の着物が良かろうが。それならわざわざなら黒衣を作らんならん。まあ兎に角惟からはまぁいっちょ惟から先、宅祭に行く時にゃ着物はまぁ黒衣に合う様な黒の言うなら羽織を羽織って行く様にしなさい。その方がお前には似合うごとあると言うて、まぁ冗談話をこの間からさせて頂いた事ですけども。私は本当にこの質素の美徳と言うものを信心する者は身に付けねばいけないと思うですね。
物を大切にすると言う事、あの本当に質素の美徳と言うか、沢山言うならお金ども持っちゃるけど、実に質素なあの感じの風態をしておられるのは、実に何と言うですか、奥床しいものですよ。満澣飾の様に暮らして行くのもそりゃ良いでしょうけれどもね、場合によっては。けど惟からは宅祭りどん行く時には、黒衣で行こうっと言うて、まあ話した事で御座いますけれども、本当にです一つ本気で、一つ質素の美徳と言うか美と言うか、そう言う物を追求して行けれる様なおかげを頂く事は。
金光大神の精神に元付いた行き方が出来ると思いますね。それはあのう今の金光様の金光御一門の方達の、質素な風と言う物はもう本当に、それこそ素晴らしいです。最近金光家では結婚式でもなんでも黒衣です。こうやってつい最近そう言う風に決まったそうです。せめて花嫁花婿さんと言うのはこう、祭との花嫁衣装を付けさせてやりたい。立派な言うならば洋服の一つも着せてやりたい、と言うのが普通の事ですけど、まあ金光家では結婚式はもう黒衣と言う事に決まった言う事です。
だからそれは持っとる者は着るなとは言わんけれども、言うならば質素の美徳と言う物を身に付けさせて頂く様な生き方。昨日私がお取り次ぎさして頂いた方の、そう言う心の状態になったならばです、日頃信心は出来なさる心を少し只廻りがです、良かもの好きである。良かもんがあったら買わにゃおられんごたる様な風なその廻りを、廻りと気付かせて頂いてです。
金光大神の言う事に背かぬ様に、その事の信心が出来なさったならです、夕べもお話しました様に、あれも惟も整うた、足ろうた所のおかげ、言うならば、綺麗な髪を結い上げて、それにヒスイの言うならば簪であり、ベッコウの言うならば櫛であり、そして誰が見ても素晴らしいなあと言う様になるのじゃないでしょうか。髪がこう乱れとるとに、さぁべっ甲の櫛を差したり、ならヒスイの簪を差したりねしとればです人間はとも、かくして神様からご覧になれば。
丁度、私が御心眼に頂いた、その様に可笑しな、見苦しい物ではなかろうかと思います。皆さん一つ本気で楽はせんぞと言う気になってご覧なさい。もう、温泉にでもやらねばおかんと言う事になからなければ、いかんと言う気持ちになってご覧なさい。とても楽です。稀には、温泉ぐらいいかにゃ、稀には御馳走でもたべにゃいかんと言う行き方の考え方を一つ止めさして頂いて、むしろそれよりか質素の美徳を身に付けて行く様な行き方を身に付けて、そして髪を結い上げる事を先ずです。
信心を頂く事がです、それにアクセサリーである所の櫛、簪が差された時に初めて立派なと言う事が解って来る様に。そう言う意味で、私しの頂いとるおかげは、皆さんに一つの見本の様な物ではなかろうか。自分から例えば固い御飯でも食べるとは思わない、もう一生お粥さん、お粥食でもう過ごす事を腹を決めた。一生自分から求めて布ども買う事じゃない、着物ども買う事じゃない、と決めたら。
着さにゃおかん、しかも最高の物を神様が着せて下さろうとする働きが、住居でも惟以上の住居には住まわんと言う在り方になれば、それこそ神様が最高の住居を与えて下さる。そこに住まわせて頂くからこそ、誰よりも勿体ない有り難いと言う心が強い。その勿体無い有り難い心が強いから、その有難い勿体無い、おかげは降る様に現れて来るので御座います。今日は私くしじゃそこの金光大神の言う事に背かぬ様にと言う所に。
大体焦点を置いて聞いて頂いた積りですが。金光大神の言われる事、それが自分で判らない廻りを、自分の特長の様な思い方をしとる様な場合が時々あるのです。夕べその方にお取り次ぎさして頂いた方の様に、ですから自分の欠点は欠点、長所は長所と、本気で解らせて貰う。その欠点を改まって行き、長所を愈々伸ばして行く信心をです、金光大神は教えて下さるのですから。
金光大神の言う事を聞かして貰おうと言う気になっとかんと、やりそこないます。そしてなら一生です例えば、それは身に付けとろうけれども心から気分が良い、サアー手形と言う時には慌て回らんで良い様な、ゆとりのある言うならば商売なら商売が出来る様なね、言う様に、言うならば身に徳を受けて、徳に集まって来る様な幸せなおかげを頂きたいものですね。
どうぞ。